第10回

MIセンサイノベーション

2020年になって、わが国では科学技術基本法(1995年制定)を改訂し、「科学技術、イノベーション基本法」とする動きが出ており¹、「科学技術イノベーション」によって、「超高齢社会の持続的発展」を図るとの方針を掲げようというものである。わが国は、1960年代~2000年代に「高度成長」を達成し、高度経済成長によって欧米先進諸国と肩を並べるに至った。そして1995年に科学技術基本法を制定して、2001年から、「科学技術創造立国」、「知財立国」をスローガンとし、科学技術振興のための5か年計画である「科学技術基本計画」を開始、2021年-2025年の第6期科学技術基本計画を準備中である。

この「イノベーション」とは、「イノベーションの国;米国」から発信された「産業の発展の理論(原理)」であるが、ベンチャー企業やベンチャー起業を風土とする米国での固有の理論と推進エネルギーであるため、わが国では「産学官連携」や「企業内ベンチャー」などで日本版イノベーションの実現を図ろうとしている。しかし、産学官連携そのものの持続・進展は上意下達では達成せず、特別な自己増殖の内的エネルギーが必要であり、イノベーションは容易ではない。さて、イノベーションを知識として吸収しようとする場合は、トインビー、シュンペータ、ドラッカーなどの著名な経済学者の著作がよく読まれている。トインビー(アーノルド・トインビー;英国の歴史学者)は、19-20世紀英国を中心とした産業科学技術による社会変動を「産業革命」と規定し、シュンペータ(オーストリア生まれ、経済の発展理論の提唱者)は「イノベーション」を提唱し、トインビー(1909-2005年;オーストリア生まれ)がイノベーションを興す経営の理論を提唱した。このイノベーションは、科学技術に基づく産業の変革以外にも、新原料の開発や販売方法の革新なども包括する幅広い原理であるため、わが国では、科学技術面に絞って「科学技術イノベーション」として実現を図ろうとしている。

「科学技術イノベーション」とは、社会の潜在的要求に応える画期的な発見および発明により、産学官連携が始動して長期的に進展し、産業の変革が継続的に生じていく社会システムであり、産業の発展の原理である。この場合の「長期的」とは、20-30年の期間である。すなわち、科学技術イノベーションの当事者は、20-30年経ってからそのプロセスの全貌を把握し発言できるものである。高度成長期では、「短期決戦」の連続であり、「使い捨て」、「現役優先」の感覚の時代であった。これからは「イノベーションの時代」であり、「20-30年の時代」である。人材の面では「経験豊富なイノベーション研究者の見解の時代」であり、必然的に高齢の研究者の活躍の場になる。

なお、出典は不明であるが、「イノベーションプロセスの3つのハードル説」という実践的な自己点検説が生産現場で流布している。これは「魔の川」、「死の谷」、「ダーウインの海」という呼称であるが、イノベーションの国:米国でのイノベーションの現場での用語らしい。さらに、米国での「西部開発」の比喩として、「魔の川」はミシシッピ川とのことらしい。とすれば「死の谷」とはコロラド渓谷、「ダーウインの海」とは、ガラパゴス諸島のある太平洋、となりそうであるが、単なる推測である。「魔の川」とは、大学等での発明が企業等で開発される場合のハードルであり、「死の谷」とは、開発された新技術が産業界でビジネスとして展開される場合のハードルであり、「ダーウインの海」は、展開されたビジネスの技術レベルが圧倒的であって、独占的ビジネスとして展開する段階のハードルとのことである。この3ハードル説は、イノベーションが20-30年の長期的な産業変革であることと対応しているようである。

MIセンサイノベーション

2019年2月に、愛知製鋼株式会社は、「車載MIセンサレイと道路面設置の磁石マーカー方式の自動運転用新磁気ガイドシステム(MPS)の販売を2020年に開始する」と発表した²。

この新磁気ガイドシステムは、同社が2016年に開発し、2017-2019年に国土交通省が実施した、道の駅等を拠点とした自動運転サービスの実証実験において、国内3か所、計5回の実証実験で高い自車位置決定精度を発揮した実績を背景としている。同社によると、この新磁気ガイドシステムでは、道路に2m間隔で設置した安価で堅牢な微小磁石(フェライト)からの微弱磁界を、車載MIセンサレイで高精度に検知して、車体の位置を+-5mmの高精度で特定し、道路白線が見えない積雪時や、GPS電波取得が困難なトンネルや屋内構造物内や山間部、天候の急変や昼夜の区別などに関係なく安定に稼働する、とのことである。車速が時速200km/hでも追随可能である。磁石マーカー設置コストは、道路に白線を表示するコスト程度とのことであり実用性が高い。 MIセンサ以外の他の磁気センサではこれらの性能は出せない状態であり、上記のイノベーションの3ハードルで言えば、「ダーウインの海」段階に至っている。したがって、「MIセンサイノベーション」という表現が適切である。新磁気ガイドシステムの事業化は、社会への影響も大きい。すなわち、情報通信技術による自動運転技術に一抹の不安を感じる状態の中で、「絶対的に信頼できる自動運転の技術あり。」の実績を示したことは、自動運転技術の社会的信用という社会変革の基盤を示したことであり、自動運転技術を中心に科学技術全般に勢いをつけるものである。

ここでは、「MIセンサイノベーション」を体験的イノベーションモデルとして、科学技術イノベーションというクラウド的巨像へ挑戦するための教訓を総括する。

MIセンサイノベーションの発端は、1993年名古屋大学の筆者の研究室での「アモルファスワイヤの磁気インピーダンス効果」の発見である。筆者は、この新現象の発見直後に、文部科学省系の独立行政法人科学技術振興機構(JST)を通して、「特許申請」を行った。電気電子工学教室同僚の赤崎勇教授〈2014年青色LEDのノーベル物理学賞〉の手法である。ここで得た「特許権」が、MIセンサイノベーションの根幹の産業権利となった。この新現象の発見の理論づけを行った後、大学研究者の習慣として、国際会議での公開を考えた。1993年のRQ-8, Sendai で講演し、会場でIEEE Magnetics society FellowのProf. F.B. Humphrey らが注目し、IEEE Int. Magnetics Conf. INTERMAG`94, Albuquerque, Special session on “Magneto-Impedance” の開催に至り、「磁気インピーダンス効果」の研究が世界的に広まった。筆者は、1995年IEEE Fellowに表彰された。

この背景には、世界的な「通信の自由化(日本では1985年)」があり、携帯電話の普及の急拡大による新情報サービスの一環としての「電子コンパス」実現の科学技術の期待があり、「地磁気検出用高感度マイクロ磁気センサ」が社会的要請になっていた。「磁気インピーダンス効果」は、この社会的要請に直接応える新現象であった。

ここで最も注意すべきことは、「研究のオリジナリティ」の確保である。社会的要請が強いほど、それに応える新現象の発見者への国際的競争が激烈になる。筆者はそれを突破した。JSTの国際的特許申請制度、特許権獲得の制度と担当者の尽力へ感謝する。日本では、すでに「学官連携」が始まっており、日本の「官」の優秀さを実感した次第である。RQ-8 は東北大学増本健教授(1981年アモルファスワイヤ開発の統括者)が責任者であり、国策プロジェクトの色彩が濃いためか、RQ-8 開催直後にJSTの担当者が筆者と面談し、INTERMAG`94 Special session on “Magneto-Impedance” の開催確認とともに、条件付きでの研究支援の提案があった。この条件とは、「磁気インピーダンス効果の発見を基礎に、企業が開発しやすいような高感度マイクロ磁気センサを発明すること」である。筆者には、国立大学教授として大いに葛藤があった。すなわち、新現象の発見で学問的業績は十分に出せた、国際的招待講演や学術誌への招待論文の依頼は沢山来ている、商品につながる開発は企業の仕事であろう、学問の自由、自治の範囲外であろう、などと悩んだ末、「事ここに至っては、個人的葛藤は小さな問題である」と悟った。そこで、「磁気電子回路専門の原田耕助教授(現九州大学名誉教授)門下生」として高感度マイクロ磁気センサの発明に取り組み、1997年に、「アモルファスワイヤのパルス磁気インピーダンス効果CMOS IC高感度マイクロ磁気センサ(MIセンサ)」を発明した。研究 室に、電子回路好きな大学院生が配属されたことも幸いした。1998年には、アナログスイッチによる温度安定性の改良を加え、集積回路生産可能なMIセンサの原型が誕生した。

これに呼応して、1998年にJSTは「新技術展開試験制度(ハイテクコンソーシアム)を名古屋大学で開催し、企業7社の参加を得た。その中の1社、愛知製鋼株式会社が1999-2002年、JSTの委託開発制度により、「アモルファスワイヤ磁気インピーダンス素子(MI素子)」の開発に着手し、開発成功の認定を受けた。そして携帯電話の電子コンパスの事業およびスマートフォン用の電子コンパスの事業を展開し、「死の谷」を超えた。電子コンパス事業は2014年からはローム(㈱ も加わり、2社生産体制になった。MIセンサは累計1億4千万個販売された。そして、この電子コンパス生産技術の高度化によって、上記の「新磁気ガイダンスシステム(MPS)」が開発された。

MIセンサイノベーションの教訓

  • (1) 科学技術イノベーションは、社会的要請に (1)潜在的に応える新現象の発見、(2) 直接的に応える発明、によって開始される。日本では「産学官連携」がイノベーションの推進力になる。この科学技術イノベーションの出発段階での「官」の力は大きい。具体的には、迅速な「特許の申請、特許権の国際的保証・管理」が「研究のオリジナリティの保証」の面で絶対的な効果を発揮する。「特許権を基礎とする研究のオリジナリティ」が、科学技術イノベーションの推進力である。国際的特許権のない産学官連携は瓦解する。
  • (2) 「学」の科学技術研究者は、社会的要請に敏感でなければならない。と同時に、「新現象の発見」に満足してはならない。全力を挙げて、「企業が開発しやすいモノの発明」を行わねばならない。これはいわゆる「学者」の価値観や習慣を超えるものである。しかし「腕の見せどころ」であり、産業からの信頼を勝ち取るものである。この「発見から発明へ」の転換点で、「官圧」が効果的な場合がある。「日本的科学技術イノベーション」の実現には、「官」の果たす役割が大きい。
  • (3) 「産学官連携」の長期的進展には、「産」、「学」、「官」の長期的な「共鳴」が必要である。とくに「産」は生産工程による商品の生産を担当する組織体であり、経営者の牽引力が不可欠である。
参考文献
¹ www.nikkei.com>article 2020/01/20 日本経済新聞 朝刊
  「科学技術基本法 初改正へ イノベーション創出重視」
² www.nikkei.com>article 2019/02/26 日本経済新聞 朝刊
  「愛知製鋼、磁気センサーで自動運転 20年度にも事業化」